朝鮮民主主義研究センター

食糧危機

北朝鮮は大規模な水害が伝えられた1995年以降深刻な食糧危機に陥っている。韓国の「同胞仏教助け合い運動」は中朝国境で北朝鮮から脱出してきた住民にインタビューし、300万人以上が餓死した、と推計した。1997年に韓国に亡命した黄ジャンヨプ氏は、95年に50万人、96年に100万人が餓死したという統計を携えてきた、と発言している。

食糧危機は1996年と1997年が最も深刻だった。2000年は11月に発表された国連食糧農業機関(FAO)と世界食糧計画(WFP)の報告書によれば、この時期の食糧供給量は必要最低限より25パーセントも少なかった。1998年と1999年には状況が若干改善したが、2000年には旱魃のため再び食糧生産が落ち込んだ。

この食糧危機に対しては国際的な食糧援助が行われており、日本政府も1995年以降数回にわたってコメ支援を実施している。2000年10月にはWFPの要請に応じる形で50万トンの支援を決めた。

北朝鮮への食糧援助に関しては「本当に必要な人たちには届いていないのではないか」という声もある。国境なき医師団(MSF)反飢餓行動(ACF)は北朝鮮当局が援助活動を統制しようとすることに反発して援助活動を停止している。

参考文献

難民

食糧危機をきっかけとして、北朝鮮の住民が数万人単位で中国へと脱出するようになった。一時的に援助を受けて再び北朝鮮へ帰る者、中国で潜伏生活を送る者、韓国をはじめとする第三国への亡命を図る者などがいる。

中国政府は脱出した人たちを難民として認めるのではなく、不法入国者として取り締まり、強制送還している。強制送還されれば暴力的な取り調べを受け、強制収容所に送られるのは確実である。

2001年6月、中国で潜伏生活を送っていたチャン・キルスさんの一家が北京のUNHCR事務所に駆け込み、韓国への亡命を求めた。2002年に入ると同様に中国内の各国大使館に駆け込む事件が急増し、2002年5月にはキム・ハンミちゃんの一家が瀋陽の日本総領事館に駆け込んだ。中国当局の取り締まりが厳しくなり、潜伏生活や第三国経由の亡命が難しくなったことや、支援団体による援助が限界に達してきたことが背景にある。

参考文献

身分制度/強制収容所

北朝鮮には「出身成分」と呼ばれる厳しい身分制度が存在する。住民は「核心階層」「監視対象=動揺分子」「特別監視対象=敵対分子」という三つの階層に分かれている。1945年8月15日以前に労働者や貧農だった者は核心階層、知識人や中小企業者だった者は動揺分子、地主や宗教者は敵対分子とされ、その分類は子孫にも受け継がれる。

住民の相互監視体制も徹底しており、言論の自由は存在しない。

姜哲煥、安赫氏をはじめとする北朝鮮から脱出した人たちの証言により、北朝鮮には強制収容所が存在することも広く知られるようになった。姜哲煥氏は1977年に祖父が政治犯として摘発され、同時に家族全員が収容所に送られた。安赫氏は1986年に中国へ抜け出して数ヶ月遊びまわり、数ヶ月後に帰って自首したところスパイとして収容所に送られた。

参考文献

帰国者(日本人妻)

1959年以降、朝鮮総連を中心とした「帰国運動」によって9万3千人あまりの在日朝鮮人が北朝鮮に渡った。その中には在日朝鮮人と結婚した「日本人妻」も1800人あまり含まれている。

在日朝鮮人は実際には南の出身者が多かったが、当時の韓国には帰国を受け入れる余裕はなかった。一方、日本には在日朝鮮人に対する差別や偏見が強く残っていた。そんな中で「地上の楽園」とまで宣伝された北朝鮮は在日朝鮮人を強く惹きつけた。マスメディアも「社会主義朝鮮」をバラ色に描いた。

ところが、実際に行ってみると北朝鮮は日本よりはるかに貧しく、元々の住民から差別されることにもなった。期待と現実の落差に失望し、不満を口にする者が多かったため、帰国者は徐々に公安当局の監視対象とされていった。

日本に残った帰国者の家族や親族は際限のない仕送りを強いられ、ときには投獄された帰国者の釈放のために献金を強要されることにもなった。帰国者は在日朝鮮人を統制するための「人質」として使われている。

いわゆる「日本人妻」に関しては、1997年、1998年、2000年にそれぞれ十数名ずつ日本への里帰りが実現した。しかし総数からすればほんの一部にすぎない。

参考文献

拉致

1977年に新潟で行方不明になった横田めぐみさんは北朝鮮に拉致されたのではないか、という疑惑が1997年にマスコミや国会で取り上げられ、大きな問題となった。日本政府は「北朝鮮による拉致の疑いがある事案」を7件10人としている。

追記(2002/03/17)

2002年3月、日本政府は「よど号」グループのケース(後述)についても拉致事件と認めた。日本政府が認めているケースは8件11人となった。

追記(2002/12/24)

2002年9月17日、北朝鮮は日朝首脳会談の際に拉致の事実を認め、謝罪した。日本政府が拉致と認定していた8件11人のほか、新潟で曽我みよしさん・ひとみさんの母娘を拉致したケース、ヨーロッパで石岡亨さん・松木薫さんを拉致したケースについても認めた。確定したケースは合計で10件15人となった。

横田めぐみさんのケースに関しては拉致疑惑の根拠は間接的な証言しかない。韓国の国家安全企画部の高官が亡命した元北朝鮮工作員の話として伝えたものと、それとは別の元工作員である安明進氏が工作員養成機関の教官から聞いた話として伝えたものだけである。しかし1980年に原敕晁さんが行方不明になった事件に関しては、原さんになりすましてパスポートや運転免許証を取得していた辛光洙が1985年に韓国で逮捕され、その後2000年に非転向長期囚として北朝鮮へ帰国している。

追記(2002/12/24)

横田めぐみさんのケースに関しては拉致の明白な証拠がないと考えていましたが、事実だったことが明らかになりました。私の見込み違いでした。

1980年にヨーロッパで消息を絶っていた旅行者が1988年に「平壌で暮らしています」と家族に知らせてきたケースもある。第三者に投函を依頼したもので、自由に手紙を出せない環境にあることが推察される。このケースに関しては1970年にハイジャックで北朝鮮に渡った「よど号」グループの関与が確実視されている。

追記(2002/12/24)

この旅行者、石岡亨さんに関し、北朝鮮政府は「1988年11月4日にガス中毒で死亡した」と日本政府に伝えた。同様にヨーロッパで行方不明になっていた有本恵子さんと松木薫さんも死亡したという。一方、「よど号」グループは現在でも拉致への関与を否定しつづけている。

1963年に行方不明になった寺越外雄さんと寺越武志さんは1987年になって家族に手紙を送り、生存を知らせてきた。その後母親の寺越友枝さんと再会した寺越武志さんは拉致を否定し、遭難したところを救助されたのだと説明しているが、不自然な点が多い。

拉致されたのは日本人だけではない。韓国からは454人が拉致されたと言われる。女優の崔銀姫氏と映画監督の申相玉氏は1978年に拉致され、北朝鮮で映画の製作に従事させられた。日本でも公開された怪獣映画「プルガサリ」は申相玉監督が北朝鮮でつくったものである。

参考文献