90年代の飢餓を予見した「悪魔の書」

私は1999年頃から北朝鮮の飢餓や人権侵害に関心を持ち、日本で出版されている北朝鮮本を読みはじめた。昨年12月の「『北朝鮮へのまなざし』を考える連続講座」で新刊書の状況について報告したので、ここでは私が読んだ中で最高の本を紹介することにしたい。1989年に出版された李佑泓氏の『どん底の共和国』(亜紀書房)である。

李氏は1921年生まれの在日朝鮮人。リンゴ生産者組合の代理店経営を本業とする。1981年に初めて北朝鮮を訪問し、北朝鮮農業が深刻な問題を抱えていることに気づいた。「祖国・共和国の農業発展に、人民生活の向上に少しでも寄与できればと考え」、その後数年間、試験栽培用の温室をつくるために奮闘するが、1985年に遂に断念せざるをえなくなった。その経験に基づいて書かれたのがこの本だ。

最初に北朝鮮の食糧事情の悪化が報告されている。配給食糧が年々減らされ、その内訳もコメが減って雑穀が増えている。食事は一日二食になりつつある。「85年から87年の3年間、共和国を連続的に襲った台風による水害は、このような食糧事情に決定的な打撃を与えた」。まるで90年代の飢餓について書かれたかのような記述だ。北朝鮮の飢餓は1990年代に突然始まったのではないことがわかる。異常気象やソ連・東欧の崩壊は、飢餓を促進する要因ではあったとしても、飢餓を引き起こした原因ではないわけだ。

では飢餓の本当の原因は何か。李氏が最も重大な問題として取り上げているのは「全国土段々畑化」政策である。1970年代に金日成の「教示」で始まったこの政策により、北朝鮮の山々はどこも頂上まで切り開かれて段々畑になった。素人目には農業生産が拡大するように思えるかもしれないが、実際にはこれが度重なる水害を引き起こしているのだという。土砂の流出を防ぐ措置が取られない場合、雨が降れば段々畑から流出した土砂が河川の川床を上げてしまう。川床が上がればわずかな降雨でも水害が起こってしまう。

その段々畑で栽培されるのはトウモロコシ。朝鮮民族の主食は日本や中国と同様にコメだが、北朝鮮ではトウモロコシが主食穀物とされている。しかしトウモロコシは水稲の三倍の肥料を必要とするため、肥料が不足している北朝鮮には適さず、土地の疲弊や減収は必至だ。品種も飼料や工業原料として使われるのが一般的なデントコーン種で、食用には適さない。さらに、トウモロコシの栽培が奨励された結果、野菜が足りなくなってキムチもつくれない状況になっている。

問題なのは農業政策だけではない。工業の未発達も農業の発展を著しく阻害している。李氏はコメ栽培に関して様々な問題を挙げていく。田植え機はなく、都市住民を動員して人海戦術で田植えが行われる。化学肥料はなく、堆肥や糞尿が使われる。カカシをつくる材料がないため、人間がブリキ缶を叩いてスズメを追い払っている。冶金工業が未熟なのでカマは重くて分厚いものしかない。脱穀に使われるのは昔ながらの千歯こき...農民は道具も機械もない中で前近代的な重労働を強いられているのだ。

農業も工業もダメなのは、結局は体制そのものがおかしいからだ。李氏は気づいた問題に関して北朝鮮の当局者に質問するが、返ってくるのは「主体農法」の宣伝文句ばかり。北朝鮮の農業には何も問題はなく、毎年豊作を繰り返していることになってしまう。自由のない体制では、間違った政策が批判されることはない。事態が深刻になっても是正されるのは難しい。この『どん底の共和国』は貴重な提言の書となるべきものだったが、実際には300万人の餓死を予見した悪魔の書となってしまった。ここまで正確に問題点がわかっていたのになぜ、と考えると怒りを覚えずにはいられない。(『木苺』116号に掲載した文章に加筆修正)


朝民研
小池和彦(kazhik@yahoo.co.jp)