朝鮮民主主義研究センター

2004年10月 3日

春原剛『米朝対立』

1990年初頭から現在に至る米朝協議の歴史を追う。取材対象は主にアメリカ政府の関係者で、実質的にはアメリカの北朝鮮政策の歴史になっている。

第一のヤマ場は1994年の核危機。著者は1993年に北朝鮮との交渉の責任者としてロバート・ガルーチが指名された背景に核不拡散論者の台頭があったことを指摘する。当時国防次官補だったチャールズ・フリーマンによれば、アメリカ政府は不拡散論者のグループとアジア専門家のグループに分かれたという。前者は大量破壊兵器の拡散防止を最重要課題と見なし、そのためには戦争も辞さないという立場を取った。後者は安定を第一とした。ガルーチがこのような色分けに賛成していないことを記しつつも、著者はフリーマンの見方を支持する。著者はガルーチに「もし、カーター訪朝が成立しなかったら」と問いかけ、「クリントン大統領も引退後、同じことを言っていたが……核疑惑施設への空爆作戦を支持したと思う」という返答を得ている。

「テポドン」の発射実験などによって緊張が再び高まった後、米朝関係は再び動きだし、1999年のペリー報告によって対話路線が確定した。北朝鮮軍部で金正日に次ぐ地位を占める趙明禄が訪米し、次にアメリカのオルブライト国務長官が訪朝した。しかしクリントン大統領の訪朝は実現しなかった。政権内部で反対の声が強く、訪朝を推進したオルブライトは孤立無援だった。

著者によれば、ブッシュ政権の北朝鮮政策は「アーミテージ・ドクトリン」に沿って形成された。ペリー報告の対話路線とほぼ同じで、現体制の存続を前提とした政策だという。しかし2001年9月11日に同時多発テロが起こり、風向きが変わった。翌年1月、ブッシュ大統領はイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで批判する演説を行った。同年10月、北朝鮮はジェームズ・ケリー国務次官補に対して高濃縮ウラン開発計画を認め、米朝関係は名実ともに行き詰まった。北朝鮮が高濃縮ウラン計画を断念すれば米朝対話を再開する、というのがこのときのアメリカ政府のスタンスだった。しかし北朝鮮側が開き直ったことでそのもくろみは崩れた。

北朝鮮はNPTからの脱退とIAEAの保障措置協定からの脱退を宣言する。他方、日韓両国はアメリカに対して対話再開を働きかける。2003年1月、ブッシュは北朝鮮問題を多国間アプローチで解決していくことを決め、中国政府に協力を要請した。パウエルが江沢民との会談で三度しつこく協力を要請し、米朝間でやってくれ、としぶる江沢民に多国間協議を受け入れさせたという。そして4月に米朝中の三ヶ国協議が実現し、8月には六ヶ国協議へと発展した。この枠組みについて、著者は二つの見方があることを伝える。多国間では北朝鮮は威嚇的な発言を繰り返すことはできなくなる、というアメリカ政府高官の見方と、中国の影響力を大きくしてしまったのではないか、と懸念する米海軍系シンクタンクCNAのマイク・マクデビットの見方だ。

本書にしたがって10年間を振り返ってみると、アメリカの北朝鮮政策は無原則に揺れ動いていることがわかる。クリントン政権もブッシュ政権も同じだ。しかし、無原則に揺れ動いているが振幅は意外と小さい。戦争に踏み切ることはできず、対話を続けることもできない。私はブッシュ政権の北朝鮮政策を「強硬なエンゲージメント政策」と捉えるビクター・D・チャの分析(『アメリカと北朝鮮』朝日新聞社)が正しいと思っていたが、そうではなさそうだ。大統領選挙が終わっても大胆な政策が打ち出されることはないのかもしれない。


出版:日本経済新聞社、2004年9月
推薦度:★★★★★

投稿者 kazhik : 2004年10月 3日 08:45
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