昨年9月の小泉訪朝で、拉致問題に関する事実認識の争いは完全に決着がついた。右翼勢力が北朝鮮による拉致を主張してきたのは正しく、左翼勢力が拉致を「疑惑にすぎない」と言ってきたのは間違っていた。現在では、後者に属する人たちによる過去の発言を取り上げ、「左翼叩き」を行なうのは一種の流行にさえなっている。
左翼の側では、在日朝鮮人の子どもたちに対する嫌がらせに抗議したり、植民地支配の歴史を強調してみせたりするなど、拉致問題をやりすごそうとする姿勢ばかりが目につく。もっとひどいのは北朝鮮バッシングの風潮や「救う会」関係者の右翼的発言に対する批判で応えようとする人たちだ。再び世論の支持を得たいなら反省すべき点は反省しなければならないのに、そうする例は少ない。
そんな状況の中、太田昌国氏は繰り返し正面から拉致問題を取り上げ、勝ち誇った右翼の煽動と左翼の過去の誤りを同時に問題とする視点を提示してきていた。それらの論文(現代企画室のサイトに掲載されている)と書き下ろしの論文を含む『「拉致」異論』はきわめて重要な意義を持つものだ。
書き下ろしの第一章では、かつて日本共産党員として「帰国事業」を推進し、現在は「救う会」の会長になっている佐藤勝巳の軌跡を追っている。
在日朝鮮人にとってよかれと思って推進した帰国事業は、実際には人を地獄へと送り込むことになった。「共産主義思想に冒され、物ごとをありのままに見ることができなかった」と佐藤勝巳は反省を述べる。それに対して太田氏は、植民地支配の歴史や戦後の在日朝鮮人に対する処遇の問題を振り返り、帰国事業が日本にとって厄介払いとしての側面を持っていたことを指摘する。批判されるべきなのは北朝鮮だけではない、ということだ。そのうえで、早くから帰国事業を批判していた関貴星氏や金鶴泳氏が孤立を余儀なくされたことも指摘される。
また、1965年の日韓条約に関して、佐藤勝巳は「当時のわたしの韓国認識は、極悪非道の政権を支えるアメリカ帝国主義と、ごく少数の学生などの正義の士が住むところというものであった」と振り返る。太田氏は、私も同じ水準だった、と述べたうえで、左翼が植民地支配の問題にまったく無自覚だったことを指摘する。民族・植民地問題が自覚されるのは、太田氏によれば、ベトナム戦争、アメリカの黒人や先住民の運動、世界各地での植民地の独立などが続いた1960年代後半である。その後、金嬉老が朝鮮人に対する差別に憤激して起こした殺人・人質事件、新左翼が民族問題の固有性を理解しないまま被抑圧民族を政治的に利用していることを華僑青年闘争委員会が告発した事件などが起こる。
太田氏が振り返っているこの二つの歴史からわかるのは、日本の左翼は連帯の相手を見ていなかったということだ。帰国事業に関しては帰国者家族からの真相告発の声を無視し、日韓条約に関しては韓国学生運動からの植民地支配の清算を求める声を無視した。この観点に立つとき、植民地支配の歴史や日本の民族差別まで肯定しはじめた佐藤勝巳は日本共産党員だった過去と同じレベルで議論しているにすぎないことがわかる。強調点が左から右へとシフトしただけなのだ。
なぜそのレベルから抜け出ることができなかったのか。日本には1950年代から反スターリン主義的な左翼の潮流が存在していたにもかかわらず、北朝鮮の体制が批判されることはなかった。1960年代末に民族・植民地問題が自覚され、被抑圧民族を政治的に利用しようとする姿勢が批判された後も状況は変わらなかった。同時代を生きてきた太田氏にはぜひこの点の具体的な解明をお願いしたいところだ。本書の考察はまだそこまで及んでいないように感じる。安江良介、小田実、和田春樹といった論者の発言をあげつらうだけでは右翼の左翼叩きと変わらない。つぶすための批判ではなく、建て直すための批判が欲しい。
その意味では、太田氏が「日本」という枠から出ようとしないのも物足りない。
私は自分が居る場所からすれば、帰国事業については、当時の日本社会のあり方にこそ批判的に見るべき多くの問題を感じる。帰国に夢を賭けた在日朝鮮人の、当時の社会状況の中での現実感を、関貴星や李進熈などの著書を通して感じ取ったうえで、その先に生じてくる日本社会の問題を見つめたいと思うばかりである。(38ページ)
帰国事業当時の日本社会の問題点を指摘するのはよい。だが、それと同時に北朝鮮社会の問題点を指摘してもいいはずだ。北朝鮮の問題は既に拉致問題にとどまらない広がりを見せている。飢餓、強制収容所、難民などは拉致と同等の重みを持ち、緊急に解決しなければならない問題だ。これらの問題に真剣に取り組めば、北朝鮮の体制が変わった時には民衆同士の真の友好関係が生まれるだろう。現在の状況は厳しいものだが、巻き返しのチャンスもあるのだ。「日本社会の問題」にこだわっていてはこのチャンスを掴むこともできなくなってしまう。
「救う会」の評価にも不満が残る。現在の佐藤勝巳がどれほど悪質な排外主義者であろうと、拉致被害者の救出を目的とした運動は明らかに正しい。拉致問題は人権問題である。人権問題に関して百万単位の署名を集め、国の政策に影響を与え、ついに5人の被害者の帰還という成果を勝ち取った「救う会」は、単純に右翼の運動として批判されるべきではなく、むしろ積極的に支持されるべきだ。太田氏は「救う会」関係者の個々の発言を批判しているが、それとは別に「救う会」の運動自体を評価する視点が必要なのではないか。
「拉致」事件の事実の解明と責任追及に関する限り、前者(産経新聞や現代コリア−−引用者)が正しく、後者(朝日、NHKから左翼諸派−−引用者)が間違っていた、あるいは不十分であったこと。それが、誰の目にも明らかな、今日の基本構図である。このことは、「拉致」事件に限られることなく、すべての問題にまで及んで、この社会を根底から変える力を発揮するかもしれない。もちろん、それは、私(たち)が好ましいとは思わない方向へ、である。私(たち)は、待ち受ける課題がどんなに困難でも、ここが私(たち)の出発点だと覚悟するしか、ない。(156ページ)
この状況認識は私も共有する。「私(たち)が好ましいとは思わない方向」への変化を阻止するためにも、私たちは「完敗」の認識を出発点としなければならない。だが、それほど悲観する必要もない。建て直しのチャンスも巻き返しのチャンスも目の前にあるからだ。